ここは板の間

僕はなんでも気ままにかくよ

人間として感じる苦痛

itanomaです

自分には一本芯の通ったもの、ここだけがちゃんとしていれば自分の人生はそれでよい。みたいなものはない。
いや普通にある人のほうが珍しいかもしれない。

自分は人間なので、他の人間との関係性に悩む。当然悩みたくない。

誰かと繋がりたいというのは、誰かと同じになりたいということなんだろうか、と考えたとき。そうなりたくないなという気持ちがある。うまく関係性を持てたらいいかもしれないけど、自分はそのあたりが器用ではないし、時たま周りにいる人間全てが煩わしいものに見えてきて、なんで人間なんだろうなと考えてしまう。この感覚は会社の飲み会でよく陥る。特に酒で気持ちよくなるわけじゃなく、その場にいる人とは和気あいあいしつつも別に仲が良いわけでもない、上がるテンションとは対照的に自分の中に空虚さを覚える。飲み会が終わって店の外に出るとほっとした気分で景色を眺めて、なんだかんだ二次会もとりあえず行ってたりもする。酒が回ったと言いつつローテンションで二次会の様子をぼんやりと眺めているときの自分こそが一番自然な気がする。この一連のやり取りは通過儀礼的なものだと思っている。

シンプルに気のおけない友人との飲み会は楽しいのに比べると、いまいち楽しめてないのが仕事上の人間との飲み会となる。 何が違うのか? と考えたとき、自分をオープンにできていないのが問題だと考えた。なぜオープンにできないのか? 相手が自分という人間を受け入れるかがわからないからだ。同じ日本人ではあるものの相手の文化・背景が不明だとやりづらさを感じる。全体的に聞き役にまわることが多いのは自分のことをいまいち話したいと思わないからだ。

友人と仕事の同僚との間にはどんな差があるか? と考えたとき、プライベートを共有したか否かが思い浮かんだ。仕事における飲み会はプライベートな集まりとは異なるコミュニケーションだし、主な目的は同じ仕事をする仲間のことを知り、仕事を円滑に進めるためのものだ、そして会社組織で人間の社会性を充実させるためだと思っている。そこから先への発展はおそらくない、彼らと友人となるパターンは基本的にはないと考えていい。まして自分にそこまでの積極性がない。しかし、ときに人間としての自分にもしかしたら必要なのかもしれないと思って、不慣れなコミュニケーションを自分から取ることもある。

会社の飲み会は楽しくないといいつつも、一匹の社会性動物としてのitanomaにはきっと必要な機会なのかもしれない。
それでもこの苦痛や煩わしさが人間という生き物特有のものなら、人間を辞めたい。それ以外のものになりたい。