ここは板の間

僕はなんでも気ままにかくよ

俺という友達

itanomaです

お世辞にも僕は友達が多くありません。まぁ数が重要というわけでもないにしろ、みんなどんなもんなんでしょうか。

で、まぁ大人になって多様なコミュニケーションツールが普及した今でさえ、そんなにはコミュニケーションしないし、つまり深い話もどうでもいい話もしないわけです。
そんな中にあって、ここ数年はノートに自分の考えを書き出したりすることも増えたりして、ブログ書いたりすることで本来は友達とするはずだった深い話、どうでもいい話を代替しているのかもなぁ…と考えたわけです。(寂寥

しんみりしましたがそんな寂しいことを書きたかったわけではなく、つまり自分の考えを文字で書き出すことで一旦自分以外の存在へ思考をコピペしたうえで、あとで過去の自分と今の自分が対話してその差分を見て改めて自分の考えを再構築する。ということがしたいんかなぁと思ったわけです。

言語によって起こる意識と、より身体的な無意識、あとは脳科学で語られる脳の働きや、思想哲学や宗教などなどを指先でつまんでいくように学んでいく過程で、
自分とは別の自分がいるんじゃね? ということを思うようになりました。仏教なんかの文脈で「私」とはなにか? を知ろうとしたときにざっくり結論としては「私」とは不変ではなく移り変わるので無いみたいなことを言ったりするわけですが(曖昧)、言語(意識)で思う私の一方で、脳や身体で訴えかける私(腹減ったとか)もいて、この2つは同じものか? と考えるとどうも違うっぽいなと感じます。

今ちょうど文章を書き進めていく最中に「腹減ったな」が差し込まれてきていますが、この「腹減ったな」は文章を書いている意識とは別のところからやってきたように感じるのです。

同じ身体という器に入った、同じOS上で動いて同じリソース(メモリ、CPU)を共有する、別々のアプリケーション(意識、無意識、あと他なんか)と言えばいいのか、そいつらが同じリソースを共有しているが故にコンフリクトを起こして、自分という人間の整合性が取れてないような気持ち(精神的苦痛)が起こったりするのかなぁとか考えたりするわけです。

今ここで思う「私」は1つのプロセスに過ぎず、睡眠によってプロセスKillされた次の日には別プロセスの「私」が起動して、メモリ上では過去にKillされたプロセスの「私」情報だけは残っているから論理的(?)には「私」なのだと言えてしまう、みたいな? つまり「私」とは妄想? まぼろし? 便宜上使われているだけ?

いやなんなら、プロセス(意識)が単一ってこともなくて、マルチに展開されているならそれは同じ情報を共有した半他人と言えなくもない。コンフリクトを起こすのが更に他人ぽさを増している。

なんだか込み入った話になって話が拡散しちゃった…

まぁ上記のようにあーだこーだ言ってこの世の真実(と思わしきもの)を好奇心のままに探究し、そのうち飽きて寝る。を自分以外の誰かとやりたいんやろなぁ俺は。

脳が疲れたので寝る。おやすみ。また来世、次の「私」と会いましょう。